2009年10月25日

貴志川線が和歌山電鉄になるまで 3

和歌山市議会が動き出すまでは、新会社の設立や会社の運営方法、資金集めの方法まで検討したWCANでしたが、和歌山市議会が動き実際に事業者を公募する段になった頃から、新会社の設立は下火になり、和歌山市の動きと実現に向けてのサポートが中心となりました。

WCANとしては、両備グループの経営参加を切望しており、和歌山市も非公式的には水面下で動いていたようでしたが、一応公募と言う形を取ったところ、複数の会社が名乗りをあげ、個人で応募された方もいましたが実現性の点で書類審査の段階で却下、最終的に地元の建設業者を中心に両備グループが名乗りをあげることになりました。(実際には和歌山市が非公式に両備グループに交渉していた節があり最終日に参加を決めている。)

なお、この件に関しては、有限会社トラベルプランニングオフイス、中尾一樹氏もその運営に名乗りをあげており私も一緒に食事をしたことがあるが、イベント列車の運行などどちらかと言うと鉄道マニア的発想が先行しており、地域の足としての鉄道確保と言う視点が大きくずれていることから実現する可能性は低いと思っていた。

また、地元の建設業者が名乗りをあげたことに対しては、市会議員等に鉄道を守るためには建設業者を今回は参加させるべきではないと言う個人的意見を述べたことがあるがそういった意味では多くの市会議員も当時は動いてくれたと思って感謝しています。

そういったなかで、貴志川線の事業を引き継ぐ会社選定公聴会が開かれるのですがこの点はまた後程お話をさせていただきます。

参考 wikipedia



  


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2009年10月24日

貴志川線が和歌山電鉄になるまで 2

昨日は、「WCANで最悪の最悪の事態に備えてある計画が進行していたのです」が終わっていたと思います。

実は、和歌山市と貴志川町(当時)では存続に対する意気込みが微妙に異なっていました。

「貴志川線の未来を作る会」も会員は圧倒的に貴志川町の住民が多く、和歌山市川は少ないといった事情もありました。

そこで、WCANの部会としては、県会議員や国会議員も巻き込んで本腰を入れるとともに、特別目的会社を立ち上げることまで検討されたのです。
この話しは、マスコミには一切公表しませんでしたので知っているのは当時プロジェクトに酸化した一部の人間だけです。

特定の目的のためだけに会社を立ち上げ、その会社が上下分離方式で電車の運行を実施。
という考えで、資金を集める場合に出資をどこに募るのか、市民からも寄付を募るかなども真剣に討議されました。

そしてもう一つの課題は、事業者はできるだけ地元から募りたいと考えたのです。

地元の利益は地元に還元することで、地域の活性化に繋がると考えたのですが、これについては、残念ながら実現しませんでした。

そうした議論が白熱化していた頃、当時の市会議員有志が市議会を動かし、和歌山市も存続に向けて重い腰を上げたのは2005年になってからでした、そこで一気に和歌山市も存続に向けて前向きに検討を開始、両備他数社の鉄道会社に打診を始めたのでした。

この辺のお話しについては、また後程させていただきたいと思います。  


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2009年10月24日

貴志川線が和歌山電鉄になるまで 1

現在、たま駅長で人気となった貴志川線ですが、南海時代は一ローカル線としての位置付で、50年代にはラッシュ時の3両編成が走ったこともありましたがその後は並行道路の整備などで輸送量は漸減、南海にお荷物路線となっていました。

元々は、山東軽便鉄道という私鉄を、和歌山軌道線とともに南海電鉄が買収したことから始まっていますので南海本線とは線路も繋がっておらず、いわゆる盲腸線と呼ばれる路線でした。

廃止の話しがでてからは、地域住民が廃止反対の名乗りをあげ、貴志川線の未来を"つくる"会が始動しました。

しかし、発足当初は運動と言っても政治家への陳情運動等に留まっていました。
そんな中、「貴志川線応援勝手連」が独自の活動として、駅舎ごとの問題点などを調べる活動を始めたことで、マスコミも注目していきました。

また、勝手連の独自の取り組みとして、貴志川線駅舎等の清掃などに取り組むこととなり、最初は冷静な目で対応していた「貴志川線の未来を"つくる"会」もその後積極的に清掃行事や駅ホームの緑化運動に合流していくこととなりました。

さらに、勝手連の活動はやがて、WCAN(和歌山市民アクティブネットワーク)の活動に合流することとなり、例会がWCAN事務局で開催されることとなったのです。

私も正式メンバーとして、この活動に参加。
辻本勝久・和歌山大学経済学部助教授を分科会会長として迎え、活発な議論が展開されました。

そのとき既に、出ていた方針として。
上下分離方式、三セクター方式は不可と言う方針が提言されていました。

また、辻本教授からは交通政策として鉄道が廃止された場合、自動車による交通量が増大してラッシュ時の大幅な渋滞が予想され環境面でも悪化をもたらす等の提言がなされました。

そういった活発な議論もあったおかげで、南海電鉄も廃止の方針に変更は無いものの、廃止時期を延長することで合意していきましたが、そのタイムリミットは確実に近づきつつありました。

そして、その時点ではWCANの方針として、上下分離方式、三セク以外の方式でいくこと、なおかつ鉄道事業者以外の参入は認めないと言った基本方針がまとまりつつあったのですが、肝心の事業者の選定については全く決まっていなかったのです。

いうのは、和歌山市は貴志川線の廃止には消極的賛成、貴志川町(当時)は廃止反対と、温度差にかなりの差がありました。

そんな中、WCANでは、最悪の事態に備えてある計画が進行していたのですが、これは別の機会にでも書かせていただきます。  


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2009年10月09日

和歌山電鉄

和歌山電鉄のたま駅長は出世して?スーパー駅長なる称号をもらったそうですが。

元々南海電鉄貴志川線だった頃には、誰にも振り向かれること無くゲージの中で気ままに暮らしていたんですけどね。

当時の写真を探してみようと思うのですが、中々見つかりません。泣

実は、私和歌山電鉄とは縁浅からぬ関係なんですと言っても怪しい関係ではありませんよ。

南海電鉄貴志川線が廃止になると聞いたとき、存続運動に参加していたのです。
もちろん、単なる圧力団体とかではなくて、きちんと提案してもしくは行政と折衝してと言ったことも行いました。

こんな記事が載っていました。本名で出ていますが・・・ネットって怖いですね。
永久に名前が残りますよ。苦笑


ということで、貴志川線存続のために当時のこぼれ話などを何度かに分けて少しづつしていきたいと思います。

南海貴志川線が廃止を表明したときは、ついに来たかと言うのが偽らざる心境でした。
紀州鉄道は、会社の看板なので廃止になることは無いとしても、かって和歌山にあった私鉄で、野上鉄道は94年に廃止になり、有田鉄道も鉄道事業を撤退、残る貴志川線が頼りでした。
まぁ、南海電鉄がバックにあるから大丈夫だろうと思っていたらまさかの経営撤退宣言

焦りましたね、和歌山港線の場合は途中駅廃止はある程度止むを得ないと思いましたし実際に利用客は殆どいなかったのでさほど大きな反対運動もなく収まったのですが、貴志川線の場合は並行する道路が整備されつつあるとはいえ、所々で狭い道が残る他通勤時間帯には混雑が激しく定時輸送ができる状況ではありませんでした。

当然、貴志川線を守る会や、その他色々な団体が立ち上がり、私は「南海貴志川線応援勝手連」に参加しました。

南海貴志川線応援勝手連

私は、2004年5月頃から参加したのですが、その後は積極的に会議にも参加し、色々なsh問題について話し合っていったのですがその辺は後ほど。


  

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