2019年01月27日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第6話

昭和47年頃までと申し上げておきながら、昭和42年で終わっておりましたので、今回は昭和43年から昭和53年の電化までで変遷を見ていきたいと思います。

昭和40年代の紀勢本線は、南紀は観光地としての人気が高く、特に白浜は観光客でいつも一杯という印象でした。
円月島と呼ばれる高嶋や、千畳敷と呼ばれる砂岩の岩場、更には三段壁と呼ばれる、名勝に指定されており、観光客が押し寄せていました。
三段壁

当時は、高速道路は開通しておらず、白浜を含む南紀方面へは鉄道の利用が一般的でした。
昭和43年の時刻表を紐解いてみますと、昼行列車も多いのですが、それ以上に夜行列車も多数設定されているのが判ります。
まず、昭和42年10月改正の時刻をご覧いただきましょう。
昭和42年10月改正の時刻

綴じ代付近が不鮮明ですが13:30~14:40の間、14:30の新宮行き直通普通列車をを挟んで、連続して急行列車が下ってゆくのがご覧いただけるとと思います。
普通列車の124列車は、紀南方面への荷物輸送を担っていたようです、この列車も昭和43年のダイヤ改正では、普通列車も気動車化されて、急行きのくに8号の先頭車はキハユニ15で、この車両を連結して和歌山駅まで走り、和歌山駅で、和歌山市からの普通列車と併結されることになりました。
夜行列車を見ていますと、9924列車という臨時普通列車が運転されており、1等車も連結されています。
さらに、924列車名古屋行き、更に南紀4号新宮行きと続いています。
しかし、このダイヤも昭和43年では次のように変更されます。
ヨンサントウ昭和43年10月改正の時刻
改正の特徴の一つとして、指定席の90%以上のマルス収容で有り、それに伴い列車名の整理が行われました。
これにより、紀勢本線の列車としては、紀州・きのくに・南紀とありましたが、紀勢本線一周の列車は、紀州。新宮までの急行列車は「きのくに」に整理され、しばし「南紀」の愛称はお蔵入りすることになりました。

「南紀」の文字が消えて、きのくに13号になっています。
また、「快速いそつり」が登場します。
私の知っている「いそつり」は12系客車による6連ですが、こちらでは1等車が連結されていますので旧型客車による運転であったと思われます。




そして、昭和44年10月にはまたまた、夜行列車のダイヤも微妙に変更があるようです。
昭和44年10月改正の時刻

昭和44年10月のダイヤ改正では、「いそつり」は、気動車で運転されていることが判ります。
昭和53年までと思ったのですが、時間が来ましたので、今日はこの辺で終わらせていただきます。、

続く  


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2019年01月26日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第5話

本日は、昭和39年の新幹線開業から、昭和47年頃までの変遷を見て行ければと思います。
紀勢本線は、最後に開通した紀勢東線区間は、開通当初から無煙化されていたとはいえ、紀勢西線側は、優等列車は気動車化されたとはいえ、普通列車の一部や準急列車などが残されており、C57やC58が旅客列車を、貨物列車はD51やD60が牽引していました。
私の幼い頃の思い出に、幼稚園で海南市にある温山荘園に遠足で行った帰りだと思うのですが、海南市から汽車で帰ったことがありました、デイゼルカーであれば、宮前駅に停車するのですが、上手い具合に列車が有るわけもなく、やって来たのは蒸気機関車が牽引する客車列車でした。
海南駅を出るとすぐ黒江のトンネルが有り、窓を閉めても入ってくる煙に閉口したものでした、その上車内は白熱灯だけで薄暗く、正直汽車の旅は楽ではありませんでした。
昭和40年の時刻表を見ると、海南駅発が15:42の列車があり、遠足の帰りと言うことを考慮すると、多分これだったのかなぁと思っています。
ちなみにこの列車、紀伊長島発紀和駅(当時は和歌山駅)着のようです。

さて、肝心の昭和39年の時刻表を参照しますと、914列車は、天王寺22:40、東和歌山着 23:57、和歌山市発23:21、東和歌山23:34となっていますが、南海なんば発22:07のダイヤも変化はありませんでした。
ちなみに、昭和36年10月の改正で南紀観光団体専用列車は、準急列車として、東京発二見浦経由となり、二見浦に早朝5:30着の後、伊勢市を10:57に出発するダイヤで、白浜に17:47着のダイヤとなっています。

昭和40年代は、前回も書きましたが、観光の入り込み特に新婚旅行のメッカとして1等車が、くろしおも二両、急行紀州も二両連結されていました。
最近はグリーン車が二両も連結されている優等車は少ないだけに、いかにこの時代は、1等車の利用者が多かったか窺えます。
ちなみに、924列車にも1等車が連結されています。
もっとも、普通列車の1等車は現在のようなリクライニングシートの車両ではなく、向かい合わせ式のサロ85のようなシートのオロ40か転換クロスシートのオロ42であたりだったと思います。


スキャナが安物で見苦しいのですが、924列車に「1」のマークが入っていますが、これは1等車が連結されていたことを示すもの。



さて、準急列車の南紀にも同様に、1等車が連結されていたのです。
こちらは、キハ28の編成であれば、キロ28が連結されていたでしょうし、キハ26であればキロ25だったかもしれないです。
と言うのも、紀勢本線にはキハ26-400番台なる、キロ25を格下げした気動車が走っていましたので、その可能性は十分あるかなぁと考えています。

昭和40年10月、昭和41年の時刻改正では特段変化がないのでいずれも省略、昭和42年10月の改正を確認してみたいと思います。
昭和42年10月改正


昭和42年10月の改正でも、大きく時刻に変更はなく、なんば発が22:09と2分だけ遅くなりました。
なお、この頃は愛称が多くて、急行列車だけで見ると、「うしお」・「南紀」・「きのくに」・「紀州」・「しらはま」・「はまゆう」と多岐にわたり、更に臨時準急、「いそじ」と言う列車が運転されています。この準急、休日だけ1等車を連結となっており、当時の南紀観光がいかに活発であったかを窺い知ることが出来ます。



続く  


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2019年01月22日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第4話

紀勢本線を走った、夜行列車第4回として、昭和36年から昭和39年までを取り上げてみたいと思います。

昭和34年に全通した紀勢本線は、関西の奥座敷として注目され、昼間の「準急きのくに」が、東和歌山の次は紀伊田辺までノンストップでは知るほどの韋駄天で、現在の特急よりも停車駅が少ない列車として走っていました。

さて、肝心の夜行列車に目を向けてみますと、東京からの南紀観光列車と言う列車が走っています。
実は、この列車は昭和36年3月から運転開始された列車で、東京駅~伊勢神宮・白浜・京都を経由して、東京駅に帰ってくる周遊列車でした。【注:伊勢神宮・白浜・京都を経由のルートが設定されるのは、昭和36年10月改正から、3月の設定では、負伊勢市方面への乗り入れは行われていません、白浜まで直通するダイヤとなっていました、】
なお、この列車には、特急つばめ・はとに使われたスハ44形客車を回転クロスシートに改造して投入することになりました。

少しだけ本だから外れますが、時間を追いかけてみましょう。

下り 東京駅10番線ホーム 19:33発、途中名古屋には2:55着、3:05発、串本、10:54、ここで一度下車して、観光客は串本を観光するようで、ここで列車は約3時間停車しています。
再び、13:24に串本を出発して、白浜に14:51に到着します。ここで乗客は下車して白浜で宿泊、翌日10:34に白浜を出発した列車は、そのまま京都まで向かいます。
和歌山駅~和歌山線、関西線、奈良線経由で京都に向かいます。
京都で約2時間ほど停車して東京を目指すのですが、この列車は前の日に京都に到着した観光客を乗せて運ぶようにする運用でした。
南紀観光団体専用列車の運転開始を書いた記事

南紀観光団体専用列車の運転開始を書いた記事、部内誌、国鉄線、昭和36年5月号から引用

なお、このダイヤはその後修正されて、二見浦に入るようになったり多少の時刻修正はありますが、昭和40年頃まで見ることが出来ます。

さて、それでは本題に戻って、天王寺発の夜行列車を見てみますと、
普通列車912列車」名古屋行き 22:40 天王寺発 なんば発 22:07発で東和歌山駅で、併結して23:41に新宮方面に走って行きます。

23:00天王寺発は、気動車準急南紀3号として5:30に新宮に到着します。
ただ、この準急ですが、20分前に出発する各駅停車と4分しか時間が縮まりません。
なんとも理解に苦しむ準急です。苦笑
23:00天王寺発は、気動車準急南紀3号として5:30に新宮に到着します


まぁ、朝早く着きすぎても困りますから、ゆっくり走ったんでしょうね。
実は、南紀という列車名、昭和39年までの時刻表を手元にある時刻表で追いかけてみたのですが、時刻が殆ど変わっていませんでした。苦笑
昭和38年10月号

昭和38年10月号
むしろ、東京発の南紀観光団体列車の方が変遷が大きいのですが、本題から外れますのでそれはまた別の機会に致しましょう。


昭和39年10月号時刻表から

続く
  


Posted by blackcat at 09:35Comments(0)紀勢本線今昔

2019年01月20日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第3話

昭和31年の改正で2往復となった紀勢夜行ですが、未だ紀勢本線は全通しておらず、昭和34年7月15日に、三木里駅~ 新鹿駅間が開通して紀勢本線として、和歌山市~亀山間が繋がりました。
さて、この改正号を持っていないので、昭和35年3月号を参照しますと、天王寺23:00に出発する列車は、準急「はやたま」となっています。

そこで、その間を埋めるべく、昭和33年11月号の時刻表を参照しますと、昭和31年の時刻表と同じく2往復とも普通列車の扱いになっています。



そして、昭和35年3月のダイヤを見てみますと、23:00前後に出発する普通列車は、準急に格上げされ、「はやたま」を名乗っています。


準急「はやたま」が誕生、普通列車は912列車と列車番号を変更、新宮で南海電車乗入れの客車を切り離すことになっていますが、寝台車は未だに連結されていません。

さらに、もう少し進んで昭和36年3月の時刻表を見てみましょう。
昭和36年3月の時刻改正では、愛称が再び変更されており、準急列車であることに変わりはないのですが、「はやたま」→「南紀3号」と変更になり、気動車化されています。
ちなみに、南紀1号は、天王寺8:30発、新宮着 11:31 南紀2号は、天王寺16:40発、新宮着21:46でした。
なお、当時は急行列車は設定されておらず、「くろしお」も準急の列車名でした。


そして、昭和36年は10月に再びダイヤ改正が行われるのですが、それは次回に致しましょう。

続く  


Posted by blackcat at 00:06Comments(0)紀勢本線今昔

2019年01月19日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第2話

戦前から、阪和電鉄による乗り入れが行われていた南紀方面への乗り入れですが、南海電車も当然のことな伽藍熱心だったわけで、瀞峡ウォータージェット船で瀞峡を観光地として開発したのは南海でしたし、戦後もサハ4801と呼ばれる客車を製作して乗り入れさせていたことは前述のとおりです。

昭和29年の時刻表を参照する限りでは、夜行列車と言える列車は1本だけ、当時の時刻表では
昭和29年の時刻表では、天王寺22:00発【南海難波21:50発】の列車が東和歌山で連結して、新宮まで下っていま新宮着は5:54で108列車下り天王寺行きは、107列車として、新宮を22:00に出発天王寺6:00、南海難波5:55着になっています。】



夜行列車自体は、昭和25年から設定されていたようです、南紀観光は潜在的な需要が多かったと見えて、昭和31年の改正では、夜行列車が2本になります。

当時の時刻表を辿っていきますと、昭和31年11月の改正と書かれています。
手元にある昭和31年11月改正の時刻表を参照しますと、下記の通り、122列車、124列車の2本が設定されており、122列車が従来からの南海からの直通列車を受ける列車で、南海難波発21:50、天王寺発22:00も変わりません、新宮着が5:30と少しだけ早くなっており、新たに設定された124列車は、天王寺22:35と続行する形で、5:54に新宮に到着するダイヤになっています。
この両列車を比較すると、122列車が各駅停車タイプであるのに対して、124列車は快速列車のように主要駅に停車するタイプとなっています。
122列車が、紀三井寺、海南、箕島、藤並、湯浅、御坊というように主要駅しか掲載されていませんが概ね各駅に停車するのに対して、124列車は、東和歌山【現在の和歌山駅】をでると御坊まで停車せず、その次は紀伊田辺という風に昔の特急列車並みの停車駅でした。
もっとも、現在の「くろしお」が当時の急行や準急並みの停車駅の方が問題なんですけどね。苦笑
s31



続く  

Posted by blackcat at 09:59Comments(0)紀勢本線今昔

2019年01月18日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第1話

紀勢本線の殿を務めた、夜行列車

現在は、22:50発、和歌山行き「くろしお」が紀勢本線の最終列車になってしまいましたが、今年の改正で廃止になってしまいました。
これにより、紀勢本線を0:00以降に走る列車は無くなってしまったわけですが。
私が、郵政局に勤務していた頃は、165系で運転される夜行列車が走っており、途中の紀伊田辺で3両を切り離すとはいえ、紀勢本線の「はやたま」からの流れを汲む正当な夜行列車が、JR発足後も走っていたことになります。
JR化後は、平成2年に天王寺連絡線の完成で新大阪駅まで延長運転が実現しましたが、その後は、運転区間も短縮され、平成11年には紀伊田辺~新宮間が臨時列車化されてしまいましたが、引き続き、大阪から紀勢本線沿線に帰るための最終列車としての役割を果たしていました。
平成13年には165系から221系に置き換えられました。
更に、平成22年には運転区間が更に短縮され、御坊までの運転となり。
もはや夜行列車と言うよりも、終着駅の時間がもっとも遅い列車となっていました。

かつては、新宮夜行として、急行列車や臨時快速も走っていた

さて、JR時代の話はこの辺にして本題の、国鉄時代のお話に入っていこうと思います。
最盛期には、急行きのくに、普通夜行列車〔後に、南紀、紀勢本線電化後は、はやたま〕更に12系客車による快速「いそつり」と合計3往復も紀勢本線を夜行列車が走っていた時期もあるのです。
私が中学生の頃だったでしょうか、カメラを買って貰って、果敢に夜行列車に挑戦したことがありました。
ISO100が標準の感度の頃ですから、しっかり三脚を据えて、踏切の外側から列車を狙うのですが・・・当然のことながら出来上がった写真は光の線しか見えないわけです。
まぁ、それは良いとして、深夜徘徊で警察官に補導されなかったものです。苦笑
最寄りの駅まで歩いて10分もかからないし、カメラ持っているからお咎めになることは無かったでしょうけど、まぁ余り宜しくないですよね。苦笑

さて、そこで、この夜行列車と呼ぶべき紀勢本線の列車何時頃から走っているのかと手元にある時刻表で遡って見ました。
手元にある時刻表が復刻版の昭和15年までしかないので、なんとも言えませんが、昭和15年10月頃には不定期ではありますが、阪和線直通の列車が走っていたようです。

阪和電鉄時代から、紀南観光に力を入れていた事が窺えます。

戦後は、昭和25年10月の改正からひょっこり、この列車が復活しています。
時刻表を参照しますと、108列車という準急で、天王寺22:00 和歌山市発23:02の列車が東和歌山〔現・和歌山〕で合流して、東和歌山23:28発、新宮着5:54となっています。
戦前は快速列車だったのですが、戦後は準急となっています。
ただ、この列車昭和28年の時刻表を見ますと再び普通列車になっており、その代わり南海電鉄からの列車乗入れがなされています。



南海電鉄からの乗入れは昭和26年から復活したとされています。
南海電鉄では、この乗入れに際してサハ4801という付随車を製造します。
付随車とはいえ、塗装が当時の南海電車の濃緑色である以外は当時製造を開始したスハ43と外観はそっくりでした。出入り口には当時の優等車のように行灯式の表示灯が設置され、国鉄がた車両であれば1等、2等といった表記がなされるところに「南海」の文字を表示させており、ひときわ目立つ存在では有りました。


ただ、この時刻表を見ていますと、白浜行きの準急も南海からの乗入れになっていますので、この時期は国鉄から借り入れた車両が乗り入れていたとも推定されます。
ご存じの方おられましたら、是非ご教示願います。

さて、もう少し続けようと思ったのですが、キリも良いところですので。
一先ず、次回は昭和30年からのお話と言うことで一先ず区切らせていただきます。

続く
  


Posted by blackcat at 14:01Comments(0)紀勢本線今昔