2019年02月19日

2月19日の記事



昭和48年頃の和歌山市は、住友金属の城下町として益々発展し、石油製品の需要増加などもあり、初島の東亜燃料【現在のJXTG】や丸善石油【現コスモ石油】の製油所が有り、初島駅近くの引込線には、常にタンク車が屯し、下津駅にも同じくタンク車が屯していたものでした。

初島や下津で精製された石油は、タンク車に載せられ和歌山操駅で組成されて運ばれていました。
現在は、トラックがその任を任されており、専用線の部分は発着場になっています。
余談ですが、和歌山工場はMobil1等のエンジンオイルを生産しており、日本では和歌山ともう1カ所だけだったと思います。

さて、今回は昭和48年の7月、9月、10月しか無いのですが、夏場には面白い列車が走っているのを発見しました。
今年の4月に、円はそれまでに固定相場から変動相場制に移行したとは言え、1ドル260円程度で推移し、海外旅行は、一般的とは言えない時代でした、またディズニーランドなどの大型の集客施設もないため、夏のレジャーと言えば海水浴が一般的で有り、夏場には臨時列車が紀勢本線にも多数運転されていました。

面白いのは、王寺を5:35に出発する御坊行きの臨時列車で、快速日の岬ビーチ号という列車が走っていました。
昭和46年から設定されていたようで、昭和47年夏にも三往復運転されていたようです。


昭和48年7月 時刻表


昭和48年7月の時刻表、王寺発快速、日の岬ビーチ号が設定されています。【正確には、始発列車をそのまま御坊まで延長運転していたことになりますが、こうした柔軟な列車設定は、今後の新しい方向として考えてほしいものですね】
他にも、和歌山駅を0:35に出発する夜行列車364Dが運転されています。


当時の紀勢本線の隆盛が偲ばれます。
時間的に考えれば、新宮までの直通旅客を狙っていたと思われますし、阪和線の最終電車あたりを受けていたと思われます。



夜行列車の方では、いそつり、924列車、臨時きのくに、きのくにの四往復が走っており、中々賑やかです。
特に、臨時きのくには、白浜で停車中に後続の定期急行に抜かれるダイヤとなっています。
この列車なのですが、運転日によっては、客車で運転されていたようで、この辺は国鉄らしいといいますか、変幻自在でした。
もっとも、停車駅が客車と気動車で変更されていますので、一部の人には使いにくい列車であったかと思います。



昭和48年9月 時刻表
夏場にシーズンを過ぎると、季節列車の「いそつり」、「924列車」、「きのくに」の三往復(いそつりは不定期列車)に戻ります。

さらに、昭和48年10月のダイヤ改正では、紀勢本線に関しては大きな変更はありませんでしたが、関西本線では、湊町~奈良間が電化され113系、並びに101系が関西線に投入されました。
関西線に投入された車両は、元大阪環状線で走っていた101系で、山手線と同色の鶯色に塗り替えられました。
ただ、木々の間では緑に溶け込んで判別しにくいとの声があり、黄色の警戒色を正面に巻く独特のイメージとなりました。
また、113系は、天鉄局オリジナルの塗装がなされました。
新快速塗装の青22号をデイゼル急行で使われていた、朱色【赤11号】に変更したもので、天鉄局以外では採用されませんでした。
春日大社の色と言うことで広報がなされましたが、JR発足後は221系が優先的に投入されたため、春日塗り113系の活躍期間は短く、平成2年頃には引退してしまいました。



昭和48年10月 時刻表
その後、東京から山手線の非冷房103系が、山手線ATC導入に伴う配転で阪和線に103系が配転されてきたときも塗り替えが終わるまでのしばらくの間は、関西線の101系同様の警戒帯が巻かれていました。


昭和48年10月の改正では、紀勢本線に関しては大きな変更はありませんでした。



夜行列車も、大きな変化は見られませんでした。

続く  


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2019年02月07日

2月7日の記事

中々前に進みません、申し訳ありません。
今回は、紀勢本線の夜行列車のダイヤを中心に変遷を辿ります。
今回は、昭和47年からスタートさせていただきます。


画像は、「白浜の観光地、千畳敷」

昭和47年という年は実は2回大全国白紙ダイヤ改正が行われた珍しい年です。
昭和47年3月は、山陽新幹線岡山開業で白紙ダイヤ改正が行われ、10月には再び全国ダイヤ改正が行われています。

最初は、昭和47年3月の時刻表を見ていただきましょう。


山陽新幹線が開業し、余剰となった153系が新快速の増発に充てられ、天鉄局でも新快速が運転されることとなり、大鉄局の虎の子113系冷房改造車を転出させることになりました。
大鉄局は、当時は数少ない冷房車で有り、かなり抵抗したそうですが、結局最終的には本社に押しきられる形で転出しました。
余談ですが、転出した113系ですが、冷房試作車だったため、113系で有りながら扇風機併用のタイプなどがありました。


阪和線の新快速時刻表
阪和線は上下とも20分発となっており、天王寺~和歌山間を45分で結びました。


特急列車は、季節列車も含めて新宮まで走っており、特急と急行を合算するとかなりの列車が走っていたことが判ります。

特に、特急列車は4時間ほどの営業ですが新宮までの列車にも全て連結され営業がされています。
気になるのは、9:20天王寺発の臨時特急ですが、このままでは新快速と被ってしまうのですが、新快速のダイヤを修正したのでしょうか?少し気になります。

他にユニークな列車名として、きのくに51号ですが、【いそ遊び】という愛称が付いており、パック商品として販売されたのでしょうか。
更に天王寺駅を8時台から10時半まで次々と天王寺から下っていきます。
圧巻は、9:00~9:30まで、さらに10:00~10:30の間、10分おきに列車が下っていきます。
天王寺は現在の1番から3番の2本のホーム、頭端式のホームで、かつ長距離列車なのにこれだけ捌いたなぁと感心してしまいます。


夜行列車は、季節列車の快速「いそつり」新宮行き、924列車名古屋行き【寝台車は新宮で切り離し】きのくに14号の順番で並んでいます。
「いそつり」は快速列車でありながら愛称を持たせてあるのは、マルスに収用していたからでした。
なお、924列車の寝台車は、当時はマルスには収納されておらず、窓口で購入する形になっていました。

さて、実は昭和47年は鉄道100年の記念すべき年であり10月1日にも実は国鉄ではダイヤ改正が行われています。
90年の記念では、C53が復元され東海道本線を走行、大阪駅で展示後、浪速貨物駅経由で当時建設中だった。交通科学館【後の交通科学博物館】にマイテ49他と一緒に、直接搬入されそのまま火を落としたと言われています。
100周年では、現在の京都鉄道博物館の梅小路機関庫【当時は梅小路蒸気機関車館】が開業、先程のC53は再び引っ越しとなり、現在の京都鉄道博物館に一足先に鎮座していました。


紀勢本線の時刻表を参照しますと、8:40のくろしお号の後に、「汽車ぽっぽ南紀号」という列車が走っています。
これは、和歌山~C577号機が牽引した列車で12系客車が竜華に配置されており、この客車が使われました。
私は、翌年のSL南紀号に紀伊田辺まで乗車したことがあるのですが、12系客車の場合、冷暖房完備のため、快適で煤煙が入ってくる心配もなく安心できたものでした。
他にも昼からの列車ですが、天鉄局の企画列車で、ハマブランカ号という列車が走っています。
こちらも。12系客車を利用した列車でした。
お恥ずかしい話ですが、20系客車を見たことがなかった私は、たまたま和歌山駅で見かけたハマブランカ号が12系客車で運転されているのを見て、和歌山にもブルートレインが走っている・・・と勝手に感動していました。
昭和47年ですから、小学校5年生の頃です。
なお、現在はアドベンチャーワールドが白浜の観光地のイメージが強いのですが、当時は三段壁の近くにあった、ハマブランカという植物園が、一番の人気施設でした。

夜行列車に関しては大きな変更は無さそうで、引き続き3本体制です。
なお、昭和48年以降は、改めてアップさせていただきます。

 

続く

  

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2019年02月05日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第7話

さらっと書くつもりが、個々に見ていきますと、時刻が微妙に変化しているため、中々進みません。
今回こそ、昭和53年の電化前まで、進められればと思っております。

さて、当時の時刻表本当にあまり今まで気にしていなかったのですが、じっくりと見比べていくとこれ程違うのかと改めて驚かされています。
昭和45年当時は、昼間の列車もそうですが紀勢本線は関西の奥座敷と呼ばれた白浜を中心に観光入り込み客が多く、和歌山市の和歌浦も週末になると観光客で溢れていました。
可処分所得は増えたとは言え、1ドルが360円の固定相場では、外国への旅行などは夢のまた夢で有り、国内旅行が一般的でした。
特に白浜を中心とした紀南観光は活発で、特急・急行でもグリーン車を2両連結する列車も珍しくありませんでした。


さて、そうした前置きはこれぐらいにして、早速昭和45年からの時刻の変遷を見ていきたいと思います。


昭和45年3月の時刻改正と紀勢本線
昭和45年、大阪吹田市の千里丘陵で日本万国博覧会が開催されました。
この改正で、全国から大阪に向けて臨時列車が運転されることになりますが、昼間帯は大きく変更は無いのですが、夜行列車に変化が見られます。
臨時列車きのくに54号の時間が1時間繰り下がっています。

天王寺発 22:00→23:00に変更されています。
終着駅、新宮は変更無しですが、到着時間が、4:52→5:03となっています。
私的な見解ですが、万博輸送の最終列車としての位置づけもあったのかなぁと考えています。ちなみに、きのくに54号、7月のダイヤでは、新宮から先、熊野市まで延長運転されており、万博輸送の一貫で延長された可能性は十分ありそうです。
ちなみに、通称新宮夜行、924列車に寝台車が連結されたのは、昭和42年10月以降だと思うのですが、昭和43年9月の時刻表では既に寝台列車が連結されていました。
昭和42年11月から昭和43年の8月号の間の時刻表が手元に無いので確認できないのですが、ご存じの方居られましたら是非ご教示願います。
私も、できるだけ資料として、時刻表を探しているのですが中々揃えられなくて・・・、苦笑
ということで、随時時系列で時刻表をご覧いただこうと思います。

① 昭和44年 10月改正 紀勢本線


上述のきのくに54号ですが、天王寺発22:00、その後、いそつり、924列車、きのくに13号と立て続けに、夜行列車【寝台列車では無い】が続きます。
紀南方面への重要な移動手段として紀勢本線が活躍していた頃でした。

② 昭和45年 3月改正 紀勢本線


昭和45年3月の改正では、きのくに54号は、23:00に繰り下げられます。いそつり、926列車、きのくに54号、きのくに13号の並びになります。夜の和歌山駅は0:00前後は賑やかであったことが想像できます。

③ 昭和45年 7月改正 紀勢本線



昭和45年7月の改正では基本は大きく変わっていませんが、「いそつり号」の運転区間が熊野市まで延長されています。

④ 昭和45年 10月改正 紀勢本線


万博が終了し、きのくに54号は運転されなくなりますが、926列車後続の臨時列車として9928列車が設定されています。この列車、天王寺出発は、20分遅いのですが、御坊では1分差まで追い上げて、南部では逆に1分先行するダイヤになっています。926列車は定期列車ですので、9928列車運転時にはダイヤ変更があったのかもしれませんが、臨時列車の方が普通列車を追い抜くというのもなんとも痛快というか不思議な列車です。

⑤ 昭和46年 4月改正 紀勢本線


昭和46年4月の時刻表を参照しますと、「いそつり」が、時期によっては熊野市まで延長されています。
熊野市までの延長運転は列車名が示すように太公望のための列車だったのかなぁと思わせてしまいます。実際、926列車にも太公望と言える人が多く乗っており、寝台車もそうした人の専用といった風情がありました。、

⑦ 昭和46年 10月改正 紀勢本線


昭和46年10月の時刻表を参照しますと、さほど大きな変更はありません。
それでも、多客期を中心に「いそつり」が運転されており、紀勢本線の新宮方面行き夜行列車は、3本体制が続きます。

すみません。やっと昭和46年10月ですね、次回は昭和47年から始めさせていただきます。

続く  


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2019年01月27日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第6話

昭和47年頃までと申し上げておきながら、昭和42年で終わっておりましたので、今回は昭和43年から昭和53年の電化までで変遷を見ていきたいと思います。

昭和40年代の紀勢本線は、南紀は観光地としての人気が高く、特に白浜は観光客でいつも一杯という印象でした。
円月島と呼ばれる高嶋や、千畳敷と呼ばれる砂岩の岩場、更には三段壁と呼ばれる、名勝に指定されており、観光客が押し寄せていました。
三段壁

当時は、高速道路は開通しておらず、白浜を含む南紀方面へは鉄道の利用が一般的でした。
昭和43年の時刻表を紐解いてみますと、昼行列車も多いのですが、それ以上に夜行列車も多数設定されているのが判ります。
まず、昭和42年10月改正の時刻をご覧いただきましょう。
昭和42年10月改正の時刻

綴じ代付近が不鮮明ですが13:30~14:40の間、14:30の新宮行き直通普通列車をを挟んで、連続して急行列車が下ってゆくのがご覧いただけるとと思います。
普通列車の124列車は、紀南方面への荷物輸送を担っていたようです、この列車も昭和43年のダイヤ改正では、普通列車も気動車化されて、急行きのくに8号の先頭車はキハユニ15で、この車両を連結して和歌山駅まで走り、和歌山駅で、和歌山市からの普通列車と併結されることになりました。
夜行列車を見ていますと、9924列車という臨時普通列車が運転されており、1等車も連結されています。
さらに、924列車名古屋行き、更に南紀4号新宮行きと続いています。
しかし、このダイヤも昭和43年では次のように変更されます。
ヨンサントウ昭和43年10月改正の時刻
改正の特徴の一つとして、指定席の90%以上のマルス収容で有り、それに伴い列車名の整理が行われました。
これにより、紀勢本線の列車としては、紀州・きのくに・南紀とありましたが、紀勢本線一周の列車は、紀州。新宮までの急行列車は「きのくに」に整理され、しばし「南紀」の愛称はお蔵入りすることになりました。

「南紀」の文字が消えて、きのくに13号になっています。
また、「快速いそつり」が登場します。
私の知っている「いそつり」は12系客車による6連ですが、こちらでは1等車が連結されていますので旧型客車による運転であったと思われます。




そして、昭和44年10月にはまたまた、夜行列車のダイヤも微妙に変更があるようです。
昭和44年10月改正の時刻

昭和44年10月のダイヤ改正では、「いそつり」は、気動車で運転されていることが判ります。
昭和53年までと思ったのですが、時間が来ましたので、今日はこの辺で終わらせていただきます。、

続く  


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2019年01月26日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第5話

本日は、昭和39年の新幹線開業から、昭和47年頃までの変遷を見て行ければと思います。
紀勢本線は、最後に開通した紀勢東線区間は、開通当初から無煙化されていたとはいえ、紀勢西線側は、優等列車は気動車化されたとはいえ、普通列車の一部や準急列車などが残されており、C57やC58が旅客列車を、貨物列車はD51やD60が牽引していました。
私の幼い頃の思い出に、幼稚園で海南市にある温山荘園に遠足で行った帰りだと思うのですが、海南市から汽車で帰ったことがありました、デイゼルカーであれば、宮前駅に停車するのですが、上手い具合に列車が有るわけもなく、やって来たのは蒸気機関車が牽引する客車列車でした。
海南駅を出るとすぐ黒江のトンネルが有り、窓を閉めても入ってくる煙に閉口したものでした、その上車内は白熱灯だけで薄暗く、正直汽車の旅は楽ではありませんでした。
昭和40年の時刻表を見ると、海南駅発が15:42の列車があり、遠足の帰りと言うことを考慮すると、多分これだったのかなぁと思っています。
ちなみにこの列車、紀伊長島発紀和駅(当時は和歌山駅)着のようです。

さて、肝心の昭和39年の時刻表を参照しますと、914列車は、天王寺22:40、東和歌山着 23:57、和歌山市発23:21、東和歌山23:34となっていますが、南海なんば発22:07のダイヤも変化はありませんでした。
ちなみに、昭和36年10月の改正で南紀観光団体専用列車は、準急列車として、東京発二見浦経由となり、二見浦に早朝5:30着の後、伊勢市を10:57に出発するダイヤで、白浜に17:47着のダイヤとなっています。

昭和40年代は、前回も書きましたが、観光の入り込み特に新婚旅行のメッカとして1等車が、くろしおも二両、急行紀州も二両連結されていました。
最近はグリーン車が二両も連結されている優等車は少ないだけに、いかにこの時代は、1等車の利用者が多かったか窺えます。
ちなみに、924列車にも1等車が連結されています。
もっとも、普通列車の1等車は現在のようなリクライニングシートの車両ではなく、向かい合わせ式のサロ85のようなシートのオロ40か転換クロスシートのオロ42であたりだったと思います。


スキャナが安物で見苦しいのですが、924列車に「1」のマークが入っていますが、これは1等車が連結されていたことを示すもの。



さて、準急列車の南紀にも同様に、1等車が連結されていたのです。
こちらは、キハ28の編成であれば、キロ28が連結されていたでしょうし、キハ26であればキロ25だったかもしれないです。
と言うのも、紀勢本線にはキハ26-400番台なる、キロ25を格下げした気動車が走っていましたので、その可能性は十分あるかなぁと考えています。

昭和40年10月、昭和41年の時刻改正では特段変化がないのでいずれも省略、昭和42年10月の改正を確認してみたいと思います。
昭和42年10月改正


昭和42年10月の改正でも、大きく時刻に変更はなく、なんば発が22:09と2分だけ遅くなりました。
なお、この頃は愛称が多くて、急行列車だけで見ると、「うしお」・「南紀」・「きのくに」・「紀州」・「しらはま」・「はまゆう」と多岐にわたり、更に臨時準急、「いそじ」と言う列車が運転されています。この準急、休日だけ1等車を連結となっており、当時の南紀観光がいかに活発であったかを窺い知ることが出来ます。



続く  


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2019年01月22日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第4話

紀勢本線を走った、夜行列車第4回として、昭和36年から昭和39年までを取り上げてみたいと思います。

昭和34年に全通した紀勢本線は、関西の奥座敷として注目され、昼間の「準急きのくに」が、東和歌山の次は紀伊田辺までノンストップでは知るほどの韋駄天で、現在の特急よりも停車駅が少ない列車として走っていました。

さて、肝心の夜行列車に目を向けてみますと、東京からの南紀観光列車と言う列車が走っています。
実は、この列車は昭和36年3月から運転開始された列車で、東京駅~伊勢神宮・白浜・京都を経由して、東京駅に帰ってくる周遊列車でした。【注:伊勢神宮・白浜・京都を経由のルートが設定されるのは、昭和36年10月改正から、3月の設定では、負伊勢市方面への乗り入れは行われていません、白浜まで直通するダイヤとなっていました、】
なお、この列車には、特急つばめ・はとに使われたスハ44形客車を回転クロスシートに改造して投入することになりました。

少しだけ本だから外れますが、時間を追いかけてみましょう。

下り 東京駅10番線ホーム 19:33発、途中名古屋には2:55着、3:05発、串本、10:54、ここで一度下車して、観光客は串本を観光するようで、ここで列車は約3時間停車しています。
再び、13:24に串本を出発して、白浜に14:51に到着します。ここで乗客は下車して白浜で宿泊、翌日10:34に白浜を出発した列車は、そのまま京都まで向かいます。
和歌山駅~和歌山線、関西線、奈良線経由で京都に向かいます。
京都で約2時間ほど停車して東京を目指すのですが、この列車は前の日に京都に到着した観光客を乗せて運ぶようにする運用でした。
南紀観光団体専用列車の運転開始を書いた記事

南紀観光団体専用列車の運転開始を書いた記事、部内誌、国鉄線、昭和36年5月号から引用

なお、このダイヤはその後修正されて、二見浦に入るようになったり多少の時刻修正はありますが、昭和40年頃まで見ることが出来ます。

さて、それでは本題に戻って、天王寺発の夜行列車を見てみますと、
普通列車912列車」名古屋行き 22:40 天王寺発 なんば発 22:07発で東和歌山駅で、併結して23:41に新宮方面に走って行きます。

23:00天王寺発は、気動車準急南紀3号として5:30に新宮に到着します。
ただ、この準急ですが、20分前に出発する各駅停車と4分しか時間が縮まりません。
なんとも理解に苦しむ準急です。苦笑
23:00天王寺発は、気動車準急南紀3号として5:30に新宮に到着します


まぁ、朝早く着きすぎても困りますから、ゆっくり走ったんでしょうね。
実は、南紀という列車名、昭和39年までの時刻表を手元にある時刻表で追いかけてみたのですが、時刻が殆ど変わっていませんでした。苦笑
昭和38年10月号

昭和38年10月号
むしろ、東京発の南紀観光団体列車の方が変遷が大きいのですが、本題から外れますのでそれはまた別の機会に致しましょう。


昭和39年10月号時刻表から

続く
  


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2019年01月20日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第3話

昭和31年の改正で2往復となった紀勢夜行ですが、未だ紀勢本線は全通しておらず、昭和34年7月15日に、三木里駅~ 新鹿駅間が開通して紀勢本線として、和歌山市~亀山間が繋がりました。
さて、この改正号を持っていないので、昭和35年3月号を参照しますと、天王寺23:00に出発する列車は、準急「はやたま」となっています。

そこで、その間を埋めるべく、昭和33年11月号の時刻表を参照しますと、昭和31年の時刻表と同じく2往復とも普通列車の扱いになっています。



そして、昭和35年3月のダイヤを見てみますと、23:00前後に出発する普通列車は、準急に格上げされ、「はやたま」を名乗っています。


準急「はやたま」が誕生、普通列車は912列車と列車番号を変更、新宮で南海電車乗入れの客車を切り離すことになっていますが、寝台車は未だに連結されていません。

さらに、もう少し進んで昭和36年3月の時刻表を見てみましょう。
昭和36年3月の時刻改正では、愛称が再び変更されており、準急列車であることに変わりはないのですが、「はやたま」→「南紀3号」と変更になり、気動車化されています。
ちなみに、南紀1号は、天王寺8:30発、新宮着 11:31 南紀2号は、天王寺16:40発、新宮着21:46でした。
なお、当時は急行列車は設定されておらず、「くろしお」も準急の列車名でした。


そして、昭和36年は10月に再びダイヤ改正が行われるのですが、それは次回に致しましょう。

続く  


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2019年01月19日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第2話

戦前から、阪和電鉄による乗り入れが行われていた南紀方面への乗り入れですが、南海電車も当然のことな伽藍熱心だったわけで、瀞峡ウォータージェット船で瀞峡を観光地として開発したのは南海でしたし、戦後もサハ4801と呼ばれる客車を製作して乗り入れさせていたことは前述のとおりです。

昭和29年の時刻表を参照する限りでは、夜行列車と言える列車は1本だけ、当時の時刻表では
昭和29年の時刻表では、天王寺22:00発【南海難波21:50発】の列車が東和歌山で連結して、新宮まで下っていま新宮着は5:54で108列車下り天王寺行きは、107列車として、新宮を22:00に出発天王寺6:00、南海難波5:55着になっています。】



夜行列車自体は、昭和25年から設定されていたようです、南紀観光は潜在的な需要が多かったと見えて、昭和31年の改正では、夜行列車が2本になります。

当時の時刻表を辿っていきますと、昭和31年11月の改正と書かれています。
手元にある昭和31年11月改正の時刻表を参照しますと、下記の通り、122列車、124列車の2本が設定されており、122列車が従来からの南海からの直通列車を受ける列車で、南海難波発21:50、天王寺発22:00も変わりません、新宮着が5:30と少しだけ早くなっており、新たに設定された124列車は、天王寺22:35と続行する形で、5:54に新宮に到着するダイヤになっています。
この両列車を比較すると、122列車が各駅停車タイプであるのに対して、124列車は快速列車のように主要駅に停車するタイプとなっています。
122列車が、紀三井寺、海南、箕島、藤並、湯浅、御坊というように主要駅しか掲載されていませんが概ね各駅に停車するのに対して、124列車は、東和歌山【現在の和歌山駅】をでると御坊まで停車せず、その次は紀伊田辺という風に昔の特急列車並みの停車駅でした。
もっとも、現在の「くろしお」が当時の急行や準急並みの停車駅の方が問題なんですけどね。苦笑
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続く  

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2019年01月18日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第1話

紀勢本線の殿を務めた、夜行列車

現在は、22:50発、和歌山行き「くろしお」が紀勢本線の最終列車になってしまいましたが、今年の改正で廃止になってしまいました。
これにより、紀勢本線を0:00以降に走る列車は無くなってしまったわけですが。
私が、郵政局に勤務していた頃は、165系で運転される夜行列車が走っており、途中の紀伊田辺で3両を切り離すとはいえ、紀勢本線の「はやたま」からの流れを汲む正当な夜行列車が、JR発足後も走っていたことになります。
JR化後は、平成2年に天王寺連絡線の完成で新大阪駅まで延長運転が実現しましたが、その後は、運転区間も短縮され、平成11年には紀伊田辺~新宮間が臨時列車化されてしまいましたが、引き続き、大阪から紀勢本線沿線に帰るための最終列車としての役割を果たしていました。
平成13年には165系から221系に置き換えられました。
更に、平成22年には運転区間が更に短縮され、御坊までの運転となり。
もはや夜行列車と言うよりも、終着駅の時間がもっとも遅い列車となっていました。

かつては、新宮夜行として、急行列車や臨時快速も走っていた

さて、JR時代の話はこの辺にして本題の、国鉄時代のお話に入っていこうと思います。
最盛期には、急行きのくに、普通夜行列車〔後に、南紀、紀勢本線電化後は、はやたま〕更に12系客車による快速「いそつり」と合計3往復も紀勢本線を夜行列車が走っていた時期もあるのです。
私が中学生の頃だったでしょうか、カメラを買って貰って、果敢に夜行列車に挑戦したことがありました。
ISO100が標準の感度の頃ですから、しっかり三脚を据えて、踏切の外側から列車を狙うのですが・・・当然のことながら出来上がった写真は光の線しか見えないわけです。
まぁ、それは良いとして、深夜徘徊で警察官に補導されなかったものです。苦笑
最寄りの駅まで歩いて10分もかからないし、カメラ持っているからお咎めになることは無かったでしょうけど、まぁ余り宜しくないですよね。苦笑

さて、そこで、この夜行列車と呼ぶべき紀勢本線の列車何時頃から走っているのかと手元にある時刻表で遡って見ました。
手元にある時刻表が復刻版の昭和15年までしかないので、なんとも言えませんが、昭和15年10月頃には不定期ではありますが、阪和線直通の列車が走っていたようです。

阪和電鉄時代から、紀南観光に力を入れていた事が窺えます。

戦後は、昭和25年10月の改正からひょっこり、この列車が復活しています。
時刻表を参照しますと、108列車という準急で、天王寺22:00 和歌山市発23:02の列車が東和歌山〔現・和歌山〕で合流して、東和歌山23:28発、新宮着5:54となっています。
戦前は快速列車だったのですが、戦後は準急となっています。
ただ、この列車昭和28年の時刻表を見ますと再び普通列車になっており、その代わり南海電鉄からの列車乗入れがなされています。



南海電鉄からの乗入れは昭和26年から復活したとされています。
南海電鉄では、この乗入れに際してサハ4801という付随車を製造します。
付随車とはいえ、塗装が当時の南海電車の濃緑色である以外は当時製造を開始したスハ43と外観はそっくりでした。出入り口には当時の優等車のように行灯式の表示灯が設置され、国鉄がた車両であれば1等、2等といった表記がなされるところに「南海」の文字を表示させており、ひときわ目立つ存在では有りました。


ただ、この時刻表を見ていますと、白浜行きの準急も南海からの乗入れになっていますので、この時期は国鉄から借り入れた車両が乗り入れていたとも推定されます。
ご存じの方おられましたら、是非ご教示願います。

さて、もう少し続けようと思ったのですが、キリも良いところですので。
一先ず、次回は昭和30年からのお話と言うことで一先ず区切らせていただきます。

続く
  


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2018年01月08日

2017年12月05日

浜ノ宮海岸にて

昔は並行する道路も無くてただ海岸線が広がるだけの場所でしたが今では、人気のスポットになりましたね。

浜ノ宮海岸
  


Posted by blackcat at 20:37Comments(0)

2017年11月14日

和歌山市で政治家を目指す、加藤好啓

地方都市の問題点を考える 第2回

以前の記事のアーカイブになりますが、和歌山市を良くしたいと言う思いは人一倍あります。
blogでの発信だけでなく直接皆様と対話させていただきたいと思っていますがひとまずはこちらでこうして、私の思いや考え方を知っていただければと思います。  


Posted by blackcat at 12:10Comments(0)

2017年11月13日

紀ノ川大橋からの夕暮れ

紀ノ川大橋の夕暮れ
夕暮れは綺麗ですが、和歌山市の黄昏だけは避けたいものです。  


Posted by blackcat at 21:21Comments(0)

2017年11月06日

阪和線六十谷橋梁

紀ノ川橋梁の夜景
阪和線の六十谷橋梁は、架け替えによりこの風景は思い出になってしまいましたね。

381系
  


Posted by blackcat at 20:00Comments(0)

2017年09月23日

和歌山市で政治家を目指す、加藤好啓

皆様こんにちは、和歌山市をこよなく愛する、blackcatこと加藤好啓です。
実は以前から、政治家blogなるものを書いておりまして、こちらでも随時公開させていただこうと思っております。
なお10月以降は随時、勉強会などを開催したいと思っておりますので、その際はこちらでも開催日等アップさせていただきますのでよろしくお願いします。
地方都市の問題点を考える 第1回  

Posted by blackcat at 13:47Comments(0)政治

2017年09月23日

2017年09月01日

2017年08月21日

2017年08月03日

思い出の野上鉄道

思い出の野上鉄道
廃止から20年になるんですね。  


Posted by blackcat at 22:31Comments(0)ローカル鉄道

2017年07月05日

思い出の野上鉄道


廃止から20年以上経過した、野上鉄道
今の子供たちは、かってここに鉄道が走っていたという事実も知らないまま過ごすことになるのでしょうね。  

Posted by blackcat at 23:30Comments(0)ローカル鉄道