2019年01月26日

紀勢本線を走った夜行列車のお話 第5話

本日は、昭和39年の新幹線開業から、昭和47年頃までの変遷を見て行ければと思います。
紀勢本線は、最後に開通した紀勢東線区間は、開通当初から無煙化されていたとはいえ、紀勢西線側は、優等列車は気動車化されたとはいえ、普通列車の一部や準急列車などが残されており、C57やC58が旅客列車を、貨物列車はD51やD60が牽引していました。
私の幼い頃の思い出に、幼稚園で海南市にある温山荘園に遠足で行った帰りだと思うのですが、海南市から汽車で帰ったことがありました、デイゼルカーであれば、宮前駅に停車するのですが、上手い具合に列車が有るわけもなく、やって来たのは蒸気機関車が牽引する客車列車でした。
海南駅を出るとすぐ黒江のトンネルが有り、窓を閉めても入ってくる煙に閉口したものでした、その上車内は白熱灯だけで薄暗く、正直汽車の旅は楽ではありませんでした。
昭和40年の時刻表を見ると、海南駅発が15:42の列車があり、遠足の帰りと言うことを考慮すると、多分これだったのかなぁと思っています。
ちなみにこの列車、紀伊長島発紀和駅(当時は和歌山駅)着のようです。

さて、肝心の昭和39年の時刻表を参照しますと、914列車は、天王寺22:40、東和歌山着 23:57、和歌山市発23:21、東和歌山23:34となっていますが、南海なんば発22:07のダイヤも変化はありませんでした。
ちなみに、昭和36年10月の改正で南紀観光団体専用列車は、準急列車として、東京発二見浦経由となり、二見浦に早朝5:30着の後、伊勢市を10:57に出発するダイヤで、白浜に17:47着のダイヤとなっています。

昭和40年代は、前回も書きましたが、観光の入り込み特に新婚旅行のメッカとして1等車が、くろしおも二両、急行紀州も二両連結されていました。
最近はグリーン車が二両も連結されている優等車は少ないだけに、いかにこの時代は、1等車の利用者が多かったか窺えます。
ちなみに、924列車にも1等車が連結されています。
もっとも、普通列車の1等車は現在のようなリクライニングシートの車両ではなく、向かい合わせ式のサロ85のようなシートのオロ40か転換クロスシートのオロ42であたりだったと思います。
紀勢本線を走った夜行列車のお話 第5話

スキャナが安物で見苦しいのですが、924列車に「1」のマークが入っていますが、これは1等車が連結されていたことを示すもの。
紀勢本線を走った夜行列車のお話 第5話


さて、準急列車の南紀にも同様に、1等車が連結されていたのです。
こちらは、キハ28の編成であれば、キロ28が連結されていたでしょうし、キハ26であればキロ25だったかもしれないです。
と言うのも、紀勢本線にはキハ26-400番台なる、キロ25を格下げした気動車が走っていましたので、その可能性は十分あるかなぁと考えています。

昭和40年10月、昭和41年の時刻改正では特段変化がないのでいずれも省略、昭和42年10月の改正を確認してみたいと思います。
昭和42年10月改正


昭和42年10月の改正でも、大きく時刻に変更はなく、なんば発が22:09と2分だけ遅くなりました。
なお、この頃は愛称が多くて、急行列車だけで見ると、「うしお」・「南紀」・「きのくに」・「紀州」・「しらはま」・「はまゆう」と多岐にわたり、更に臨時準急、「いそじ」と言う列車が運転されています。この準急、休日だけ1等車を連結となっており、当時の南紀観光がいかに活発であったかを窺い知ることが出来ます。
紀勢本線を走った夜行列車のお話 第5話


続く


Posted by blackcat at 00:06│Comments(0)
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