2009年10月24日
貴志川線が和歌山電鉄になるまで 1
現在、たま駅長で人気となった貴志川線ですが、南海時代は一ローカル線としての位置付で、50年代にはラッシュ時の3両編成が走ったこともありましたがその後は並行道路の整備などで輸送量は漸減、南海にお荷物路線となっていました。
元々は、山東軽便鉄道という私鉄を、和歌山軌道線とともに南海電鉄が買収したことから始まっていますので南海本線とは線路も繋がっておらず、いわゆる盲腸線と呼ばれる路線でした。
廃止の話しがでてからは、地域住民が廃止反対の名乗りをあげ、貴志川線の未来を"つくる"会が始動しました。
しかし、発足当初は運動と言っても政治家への陳情運動等に留まっていました。
そんな中、「貴志川線応援勝手連」が独自の活動として、駅舎ごとの問題点などを調べる活動を始めたことで、マスコミも注目していきました。
また、勝手連の独自の取り組みとして、貴志川線駅舎等の清掃などに取り組むこととなり、最初は冷静な目で対応していた「貴志川線の未来を"つくる"会」もその後積極的に清掃行事や駅ホームの緑化運動に合流していくこととなりました。
さらに、勝手連の活動はやがて、WCAN(和歌山市民アクティブネットワーク)の活動に合流することとなり、例会がWCAN事務局で開催されることとなったのです。
私も正式メンバーとして、この活動に参加。
辻本勝久・和歌山大学経済学部助教授を分科会会長として迎え、活発な議論が展開されました。
そのとき既に、出ていた方針として。
上下分離方式、三セクター方式は不可と言う方針が提言されていました。
また、辻本教授からは交通政策として鉄道が廃止された場合、自動車による交通量が増大してラッシュ時の大幅な渋滞が予想され環境面でも悪化をもたらす等の提言がなされました。
そういった活発な議論もあったおかげで、南海電鉄も廃止の方針に変更は無いものの、廃止時期を延長することで合意していきましたが、そのタイムリミットは確実に近づきつつありました。
そして、その時点ではWCANの方針として、上下分離方式、三セク以外の方式でいくこと、なおかつ鉄道事業者以外の参入は認めないと言った基本方針がまとまりつつあったのですが、肝心の事業者の選定については全く決まっていなかったのです。
いうのは、和歌山市は貴志川線の廃止には消極的賛成、貴志川町(当時)は廃止反対と、温度差にかなりの差がありました。
そんな中、WCANでは、最悪の事態に備えてある計画が進行していたのですが、これは別の機会にでも書かせていただきます。
元々は、山東軽便鉄道という私鉄を、和歌山軌道線とともに南海電鉄が買収したことから始まっていますので南海本線とは線路も繋がっておらず、いわゆる盲腸線と呼ばれる路線でした。
廃止の話しがでてからは、地域住民が廃止反対の名乗りをあげ、貴志川線の未来を"つくる"会が始動しました。
しかし、発足当初は運動と言っても政治家への陳情運動等に留まっていました。
そんな中、「貴志川線応援勝手連」が独自の活動として、駅舎ごとの問題点などを調べる活動を始めたことで、マスコミも注目していきました。
また、勝手連の独自の取り組みとして、貴志川線駅舎等の清掃などに取り組むこととなり、最初は冷静な目で対応していた「貴志川線の未来を"つくる"会」もその後積極的に清掃行事や駅ホームの緑化運動に合流していくこととなりました。
さらに、勝手連の活動はやがて、WCAN(和歌山市民アクティブネットワーク)の活動に合流することとなり、例会がWCAN事務局で開催されることとなったのです。
私も正式メンバーとして、この活動に参加。
辻本勝久・和歌山大学経済学部助教授を分科会会長として迎え、活発な議論が展開されました。
そのとき既に、出ていた方針として。
上下分離方式、三セクター方式は不可と言う方針が提言されていました。
また、辻本教授からは交通政策として鉄道が廃止された場合、自動車による交通量が増大してラッシュ時の大幅な渋滞が予想され環境面でも悪化をもたらす等の提言がなされました。
そういった活発な議論もあったおかげで、南海電鉄も廃止の方針に変更は無いものの、廃止時期を延長することで合意していきましたが、そのタイムリミットは確実に近づきつつありました。
そして、その時点ではWCANの方針として、上下分離方式、三セク以外の方式でいくこと、なおかつ鉄道事業者以外の参入は認めないと言った基本方針がまとまりつつあったのですが、肝心の事業者の選定については全く決まっていなかったのです。
いうのは、和歌山市は貴志川線の廃止には消極的賛成、貴志川町(当時)は廃止反対と、温度差にかなりの差がありました。
そんな中、WCANでは、最悪の事態に備えてある計画が進行していたのですが、これは別の機会にでも書かせていただきます。